その1・サイレンススズカ〜君の影が見えない・・・。前編〜

 自分が競馬を見始めたのは1997年暮れ。
もしもこのタイミングが1年遅れていたら・・
この名馬の実力はもちろん名前すら自分の中には刻まれなかっただろう。
自分の目でこの最強の馬の証を見ることが出来た・・・。
それが、サイレンススズカ、彼である。


サイレンススズカは父サンデーサイレンス
サイレンススズカがデビューする97年の前、95年96年と
2年連続でリーディングサイアーに輝いた、
まさに世間を圧巻していた時代であった。


サイレンススズカは現在の数え方で3歳の2月にデビュー。
デビュー戦、サイレンススズカはその圧倒的な潜在能力を披露した。
1600mのマイル戦を2着のパルスピードに1・1秒差の圧勝劇で飾った。
期待のかかる2戦目、弥生賞サイレンススズカは2番人気で挑む。
しかし、ここでサイレンススズカの大成をはばむ難関が現れた。気性である。
スタート前からゲート付近で落ち着かないサイレンススズカ
レース開始のゲートが開いた後、出遅れ。
このレース、8着。ここからサイレンススズカのダービーを目指す新たな挑戦が始まる。


弥生賞後、自己条件戦、ダービートライアルのプリンシパルSを連勝。
サイレンススズカは初めてのG1レース、ダービーに挑む。
4番人気。当時のライバルにはメジロブライトシルクジャスティスなどがいた。


サイレンススズカの脚質は見るものを魅了する「逃げ」。
このダービー、逃げ馬はサイレンススズカだけではなかった。
その1頭がサニーブライアン皐月賞馬である。
皐月賞を勝ったときのサニーブライアンは11番人気。
勝利後もその評価は高まらず、ダービーでも6番人気に甘んじた。
そのサニーブライアンの鞍上、大西騎手はレース前こう言った。「逃げます」と。
俗に言う「逃げ宣言」である。
レースは、サニーブライアンのペースとなった。
長い東京の直線、サニーブライアンを捉えることが出来た馬は、いなかった。
サイレンススズカは9着。再び敗北を喫したサイレンススズカは秋にリベンジを誓う。


1番人気で迎えた秋初戦の神戸新聞杯、2着。
後の菊花賞マチカネフクキタルにまさかの敗北を喫する。
これ以降、サイレンススズカの迷走が始まる。鞍上も変わった。
距離延長を嫌って菊花賞を回避。天皇賞に向かうも女帝エアグルーヴに破れ6着。
デビュー以来のマイル戦となったマイルチャンピオンシップ
タイキシャトルの15着の惨敗であった。


マイルチャンピオンシップ惨敗の1ヵ月後、サイレンススズカは香港にいた。
毎年12月に開催される香港シリーズ。
その香港国際カップ、G2に参戦していた。
結果は5着。しかし、このときサイレンススズカはとある男と出会った。
それが他ならぬ現在の日本のトップジョッキー、武豊である。
新たなコンビが誕生、ここからサイレンススズカの快進撃が始まる。